今回はファミコンの『ベースボール』について振り返ってみよう。 本作は『テニス』、『ゴルフ』、『サッカー』などに続いていく任天堂定番スポーツゲームの先駆けとなった作品だ。
ファミコン初のスポーツゲームは野球だったのね。
本作はファミコンの普及において重要な役割を担っていたわ。 ファミコンが生まれた年の、つまりファミコンにとって初めての年末商戦に投入されたのよ。
この1983年12月にリリースされたファミコンソフトは本作と『ドンキーコングJRの算数あそび』の2本でした。 ですが後者は子供向けの教育ソフトであり、ターゲットが限定されていることを考えると任天堂にとっては本作の方が本命だったと思います。
当時ドンキーコングやマリオの名前はゲームファンには知られていても世間一般の知名度は高くなかった。 しかし野球は誰もが知っているような人気のスポーツだったため、家庭で野球ゲームが遊べるというのは大きなアピールポイントとなった。
事実、クリスマス前にはファミコンと一緒に本作を購入する光景が多く見られていたものよ。
へえー、そんなに売れたんだ? クリスマスなんてファミコン人気を押し上げるには絶好の機会だもの。狙い通りになって良かったわね。
ところが、本作の発売直後に予期せぬ事態が起こります。 ファミコンは最大の危機に見舞われることになるのですが…この話は長くなるので続きは最後にして、先に本作の内容についてひととおり見てみることにしましょう。
チーム選択画面。
1人プレイモードではCPUと試合ができる。 まずは使いたいチームを選ぶんだ。
アルファベット6文字から選択するのですが、これらは当時のセ・リーグ6球団の頭文字になっています。
実のところ球団名を使用する許可を取っているわけじゃないからアルファベットがチーム名ということになるのだけど、ユニフォームの色も踏襲しているし野球ファンならすぐに連想するわよね。
パ・リーグはないのね。ちょっと残念だけど、ファミコン初期だしやっぱり容量の都合なのかしら。
うむ、確かにそうだとは言えないが、その線が濃厚だとされている。
パ・リーグはその後発売される野球ゲームでも省略されることが多くて、初めて完全収録されるのは1987年の『燃えろ!!プロ野球』を待たなきゃならないわ。 パ・リーグのファンには遺憾千万の日々が続くわね。
当時のプロ野球人気は全国的にテレビ中継を行っていて多くのスター選手を擁していたジャイアンツに集中していました。ジャイアンツ属するセ・リーグとパ・リーグでは大きな差があったため、セ・リーグを優先するのは仕方のない措置だったのでしょう。
とは言え本作は実在の球団をモチーフにしているものの、各選手の名前は設定されていないし能力も皆同じだ。 取り入れられている特徴はユニフォームの色くらいだから深く気にせずに楽しむのがよいだろう。
ピッチャー vs バッター。
先攻・後攻は選べずアトランダムに決められるわ。 攻撃側はバッターボックスの選手を操作して、向かってくるボールを打ち返すのよ。
バットスイングの操作はAボタンです。ボタン長押しでバットを振り抜きますが、途中を離せばバントすることもできますよ。
ボタンを離すタイミングでバットの角度を調整できる。 本作においてバントはかなり有効だから狙った方向にしっかり転がせるように練習しておくといい。
バントもいいけどやっぱりホームランが野球の華よ。 ホームランを打つとバッターがダイヤモンドを一周するカットシーンが見られるわ。 これが見たくてプレイしていると言っても言い過ぎじゃないくらい好きなのよ(^^)
ホームランが出るとスタンドが点滅する派手な演出が入る。
投球中に各十字キーを入力することで球種を変えられる。
対する守備側ですが、まずはピッチングについて。 十字キーの操作によってボールの速度や軌道を変えることができます。
ここで本作のちょっと変わったところなのだけど、野手の移動やキャッチングはオートで行われるわ。 だけど捕球した球を各塁へ送球するのは手動なのよ。
守備陣を自分で操作するところまでは作り込めなかったのかしらね。 でも私は捕球がちょっと苦手だから、こうしてくれた方がありがたいかもだわ。
しかしこのオート守備にもやや問題点があって、思い通りに捕ってくれないことも多いんだ。 捕れるはずのゴロを捕りに行かずベースカバーに走ったり、フライから逃げてこぼしたりというようなことがよく発生する(´Д`;)
先ほどの『バントが有効』という話はこれに起因していますね。 バッティングに慣れてくると乱打戦になりやすいです。
逆に言うと点を取られやすいということでもあるから、打ち慣れていないと勝つのは難しいわ。
もちろんCPU戦だけではなく、人間同士の対戦も可能です。 本作を用いてペナントレースを楽しんだ人も多く見られました。
ペナントレースって言うけど、そういうことができるモードがあるわけじゃないわよね。 てことはノートかなにかにスコアを記録して?
そういうことだな。相当の手間や時間がかかるが、当時そういう工夫をして遊んでいた子供たちはわりといたように思う。 そうすれば何人かで集まって遊ぶこともできるしな。
だけど、時にはコントローラーの問題でトラブルになることもあったわ。 ファミコンには1プレイヤー側にだけスタートボタンがあるから、投球中にポーズをかけてタイミングを外して打ち取ったりしてね。
禁断の魔球、空中停止ボール。
えー。それは白熱した真剣勝負でやったらダメなやつだわ(^^;)
対戦ゲームは節度を持ってプレイしないといけませんね(^^;) いくら勝ちたくても遺恨を残すようなやり方は良くないですよ。
本作はセガからアーケードやSG-1000用にリリースされた『チャンピオンベースボール』に次ぐ野球ゲームになるわ。このチャンピオンベースボールは野球ゲームのルーツにあたる作品で、本作にもその影響を強く残しているのよ。
チャンピオンベースボールは今回の主役ではないので詳しくはフォーカスしませんが、各選手に名前や打率、防御率のデータを与えたり盗塁やバントに変化球の操作を取り入れるなど、当時としては非常に画期的な作品でしたね。
今の視点で見ると物足りないところもあるのだが、打って投げる他にもバントや盗塁、牽制などの操作も可能で、しっかり野球で遊んでいる感覚が味わえるため発売当時としては申し分ない面白さを感じたものだ。
任天堂のベースボールはチャンピオンベースボールを下敷きにしたかもしれないってことなのね。
大きな違いとして任天堂のベースボールには選手の個性は実装されていないということがあります。 これは現代の視点では物足りないように思えてしまいますが、当時はあまりマイナスに受け止められることはありませんでした。
ボードゲームの野球盤を覚えているかしら? コンピュータゲーム出現以前から家庭で野球を模擬して遊べる玩具として普及していたけれけど、それにも選手の個性はないし守備の操作もできなかったから、その延長としてみればこのファミコン版のシステムは不満に思われるようなものではなかったのよ。
そっか、野球盤から直系の進化って考えたらこんな作りのゲームになるのは自然な流れね。 野球盤だって相当流行ったけど、それよりも介在できる余地が増えているんだから人気が出るのは必然に思えるわ。
野球ゲームの進化は本作から更に引き継がれていき、この後に発売される野球ゲームは本作で物足りないと感じたところを補強するという発想で開発されているものが多いんだ。
例えばナムコの”プロ野球ファミリースタジアム”では選手の個性付けや守備操作の手動化を、ジャレコの『燃えろ!プロ野球』ではTV中継さながらの臨場感を求めて企画されているわね。そうした意味では本作も野球ゲームのルーツのひとつよ。
話は変わりますが、なんと本作はファミコンが生まれた1983年に発売されたソフトにおいて最大のヒット作なんですよ。
えっ、これが一番売れていたの? 『ドンキーコング』や『マリオブラザーズ』みたいな看板キャラクターのタイトルを差し置いて?
誤解があるといけないから補足しておくが、1983年のうちに一番売れたというわけではなく1983年に発売されたソフトの中で最終的に一番売れたということだな。ドンキーコングは88万本、マリオブラザーズは163万本だったのに対しベースボールは235万本を売り上げている。
長期に渡りコンスタントに売れ続けたということね。 結果的には任天堂の戦略が当たった形になるけれど、ベースボールを発売した1983年の年末は試練の時期だったのよ。
ああ、最初に言っていた話ね。いったい何があったっていうの?
簡単に言えばファミコンの出荷停止騒動だ。初期のファミコンでは個体によって背景の色がおかしくなってしまうようなトラブルが時折起きていた。
この問題は早いうちに発覚し任天堂を悩ませますが、発生数が限定的だったことから販売は継続され、問題のあった個体は交換するという対応を取っていたんです。
だが、このベースボールでは悪夢のような事態に発展してしまう。 ベースボールでは多くのファミコン本体において白線が明滅したり消えてしまうという現象が多発したんだ。
ここにきてようやく原因が画像処理用チップの熱暴走によるものだと判明。 任天堂はファミコンの出荷停止と店頭在庫の回収、すでに販売済みの製品に対して無償修理することを決めるわ。
考えうる限りの誠実な対応ですが、クリスマスシーズンと言う最高の売り時を逃したわけですから関係者は血の気が引いたでしょうね。
どう考えても大ピンチよね。商機を逸することはもとより回収や交換のコストもばかにならないでしょうし、想像するに恐ろしい事態だわ(^^;)
ファミコンが店頭から姿を消す苦境に立たされる一方で、年末商戦は他のハードに商機が訪れる格好となった。 この1983年は家庭用ゲームハードが乱立した年で、特にセガのSG-1000の躍進は目覚ましいものがあった。
SG-1000はファミコンを強く意識して市場に投入されていて、グラフィック能力や耐久性ではやや劣っていたけれど価格を同等に押さえていたことが功を奏したわ。年末商戦の好調も手伝って発売初年度での販売台数は約16万台にも達したそうよ。
ファミコンの初年度販売台数は約44万台でしたから数字の上では及ばないとはいえ、これはセガの予想を超えた成果でありその後の家庭用ハードへの本格進出を決定付ける材料となりました。
SG-1000もセガの開発ノウハウが活かされたいいハードだものね。当時のソフトラインナップはファミコンより豊富だったって聞くし、こうなるといよいよファミコン側の不利が濃厚になりそうなものだけど。
ところが、それでもファミコンは売れ続けたんです。 先に述べたようにファミコン不在の間は他ハードが売り上げを伸ばしていたのですが、その一方でファミコンの入荷待ちに徹する子供たちも多くいました。 彼らの目にはファミコンはそれほど魅力的に映っていたんですね。
それまでもファミコンのポテンシャルに驚かされることは度々あったけど、こんな事態になっても失速しなかったことでファミコン人気の確かさを強く認識したものだわ。
最大の危機を乗り越えたファミコンは加速度的に売れ行きを伸ばして、1983年末時点で44万台だった販売台数は翌1984年5月末には累計100万台を突破する。家庭用ゲーム機としては後発で発売当初はさほど目立たなかったファミコンがここまでの人気になると予見できた人はどれくらいいたんだろうな。
初稿:2025年05月14日